「トリスタンとイゾルデ」バイエルン歌劇場ストリーミング 2021.8.3

昔々、アディーナではないけれど、思春期に差しかかったウラ若いiltrovatoreは「トリスタンとイゾルデ」の物語を読んだことがあります。その物語によると、、、

 

トリスタンと(美しい)イゾルデは間違えて愛の秘薬を飲んでしまい、それゆえに許されざる愛に苦しむ。トリスタンは苦しみのあまり故郷を離れ放浪し偶然のことから「白き手のイゾルデ」と結婚するが彼女を愛することはできない。トリスタンは病に犯されついに「美しいイゾルデ」に助けを求める。

 

もし美しいイゾルデがトリスタンの元に来るならば彼女の乗る船の帆は白、来ないならば黒とされていた。トリスタンは今か今かと彼女を待っている。しかし嫉妬に駆られた白き手のイゾルデは白い帆の船が来たのに黒い帆だとトリスタンに告げ、トリスタンは失望のあまり死んでしまう。到着した美しいイゾルデは死んだ彼を見、悲しみのあまり心臓が破れて死んでしまう。

 

とまあ、この二人の物語はこれ以外の逸話がいくつも連なった物語なのです。しかしワーグナーはトリスタンと(美しい)イゾルデの愛に焦点を絞り二人の濃厚な物語に仕上げました。

 

しかも音楽がなんとも濃厚で、前奏曲で最初に演奏される有名なフレーズを聞いただけでこの楽劇の世界に引き込まれ・溺れてしまいます。ペトレンコは抑圧された情念を大袈裟ではないが官能的に指揮していました。

 

ペトレンコの指揮で気がつくのは彼の作り出す「間」(言い換えれば音のない静寂の瞬間) の取り方がなんとも言えず上手なことです。繰り返される「静寂」によって私の意識は研ぎ澄まされ音楽に集中することができます。

 

彼のうまさを実感するのは今に始まったことではないですが、聴衆の皆様も同じ想いらしく、演奏する前から足踏みによる喝采が聞こえました。もう期待に満ちた瞬間ですね、この瞬間がたまらない。

 

第1幕はアンニャ・ハルテロスのうまさが光っていました。イゾルデの愛憎入り混じる恨み節をイライラ感を漂わせ見事に表現し、延々と続く歌唱を飽きさせず聞かせていました。動きのない舞台ですが芝居も上手ですね。

 

言い古されていることですが、オーケストラが彼らの心象風景を語ること語ること。音楽が素晴らしい。二人が愛の媚薬を飲んだ後、オーケストラの長い沈黙も心に残りました。

 

そういえばマルケ王の侍従の年取ったおじいさん、この前バイエルン歌劇場でのバリー・コスキーによる新演出「バラの騎士」に出ていた年老いた「時」の天使役ではなかったかな?違います?

 

第2幕はやはり愛の二重唱が良いです。二人は抱き合わないしキスもしませんが心は盛り上がっている状況をうまく演技で表していたと思います。彼らの歌は静かで内省的、しかし抑圧された情念を滑らかにレガートに歌います。歌はどんどん盛り上がって決して成就することのない愛に二人は酔いしれます。

 

途中で挿入されるブランゲーネの見張りの歌も美しい。本当に美しい歌ですね

 

マルケ王らの登場によって二人の陶酔は破られますが、このマルケ王はとても優しい方なのです。柔らかい歌い方で彼の失望をうまく表現していると思いました。

 

第3幕はカウフマン全開!イゾルデに対する憧れ、思いの丈を圧倒的な声で歌っています。ここはよかった!カウフマンのエネルギー配分がうまいのか声に疲れが全く見えません。

 

最後はハルテロスの「愛の死」。イゾルデの歌で一番難しい部分を4時間にわたる舞台の最後に持ってくるなんてワーグナーも意地悪だなあと思います。iltrovatoreは元々ワルトラウト・マイヤーのイゾルデが好きで彼女の歌を聞き込んでいますが、ハルテロスも初ロールながら非常にうまいと思いました。

 

全体に言って、初ロールのカウフマンとハルテロスを含めマルケ王、クルヴェナール、ブランゲーネ全ての歌手のレベルが高く、みなさまの高い期待に応えた良い公演であったと思います。とても満足しました。ストリーミングしてくれたバイエルン歌劇場に感謝です。

 

最後に演出に一言(たくさん言うが):

 

毎度のことながら今回のワリコフスキーの演出は多くの批評家から文句をつけられていました。要するに「お前は演出家なのに何にも演出していないじゃないか!」です。常々、彼の演出は部分的に良い思いつきはあるにしても全体としてパッとしたところがない、と考えている私ですが、今回はいつもよりずっといいと感じました。

 

「トリスタンとイゾルデ」はこの2人の心を綿々と歌い上げる心理劇なのです。二人の周りで人がバタバタ動く余分な演出は不要で、ワリコフスキーはそのことをわかっていたのではないかなあと思います。(第1幕は水夫達が少々鬱陶しかったが)

 

ただしパペット(風の人間)が余計かなあ?これらのパペットは彼ら二人の想いの化身でもあり、またあるときは実体そのものになっていました。でもパペットを使うのは難しいです。昨年のパリの「アイーダ」でも主役達の化身(ダブル?)としてパペットを使っていましたが、アイデア倒れで無残だったように記憶しています。

 

歌手のダブルとしてのパペットを歌手を同じ場面に出すと、そりゃ歌手の存在感が圧倒的でパペットはなんじゃらほいに見えてしまいます。「主人公達の心を多面的に表現するのにパペットを使いたい」という演出家の目論見と想像しますが、歌手と同じくらい存在感のあるパペットを創り出さない限り所詮パペットはパペット。今回もアイデア倒れと思われます。パペットが歌手と同じ舞台にいることでむしろ音楽や舞台に対する聴衆の気が散ってしまうと思いました。

 

それに今回のパペット(風人間)は衣装も靴もラフでカジュアル、軽い雰囲気です。はっきり言って舞台の濃厚さと全く異質な存在でした。このパペット達さえ出さなければ、今回の演出は「合格!」だったのですが。。。

(2021.8.3 wrote) 鑑賞記に戻る