2006年暮れから2007年にかけてロンドンのロイヤルオペラハウス(ROH)で「カルメン」が上演されました。その際ヨナス・カウフマンが演じたドン・ホセは人々の心に深い感動を与えました。これはカウフマンの創り上げたドン・ホセ像に焦点をあてた感想です。
ドン・ホセの役どころとしては「素朴でまじめな青年が、官能的で奔放なカルメンに誘惑され、のめり込み、翻弄され、おっぽり出されたたあげく、逆ギレしてカルメンを殺す」というのが一般的でしょう。
しかしカウフマンは、今までにないあらたなドン・ホセ像をこのROHの舞台で創り上げています。彼はドン・ホセを利己的、暴力的、自己制御が効かない人物、自らの盲目的な愛の為に自滅してゆくキャラクターとして演じています。
ROHでのドン・ホセは第一幕から「素朴でまじめ」という雰囲気がありません。きっちりと髪を結い上げ上官との受け答えも神経質できつい感じです。カルメンに翻弄されている感じはあまりしません。
しかしカルメンに誘惑され、「俺は酔っ払ったみたいだ」「もし俺がおまえを好きになったら、おまえも俺を愛してくれるかい」と言ったところで完全にカルメンに参ってしまったことがよくわかる演技です。
2幕で登場するドン・ホセは、髪も乱れて心の乱れを表しているようです。カルメンは当然自分のもの、と思い込んでいる風で初めからカルメンに対する欲望がはっきりと現れており、少少気に障ると彼女につっかかったり、彼女の髪の毛をひっつかんだり,いすを蹴飛ばすなど、乱暴で攻撃性が強い性格が現れています。
彼の思い込みの強い危ない性格は第2幕「花の歌」(下の動画)によく現れていると思います。
カウフマン/ドン・ホセはこの歌を歌っている間、いっときを除き、ほとんどカルメンを見ていません。カルメンと始めて会ったとき彼女から放り投げられた花、牢屋に入っている間もひたすらカルメンを想って握りしめ香りを嗅ぎ眺めていた花、いまは枯れてしなびた花に向かって、そして自分自身に向かってひたすら歌いかけています。
「愛してくれ」とカルメンに懇願するよりむしろ自分の世界にはまり込み、枯れた花に向かって自分の愛を訴えるように歌っています。もはや完璧なストーカー状態・・・・。
カウフマン/ドン・ホセは「花の歌」で彼女への思いを情感豊かに歌い上げています。特にアリアの最後、
o ma Carmen!
et j’etais une chose a toi!
Carmen, je t’aime!
おお、俺のカルメン!
俺はおまえのものだ!
カルメン、愛している!
(正確なフランス語表示ではありません)
et j’etais une chose a toi! の最高音「変ロ音」を最後は弱音で柔らかく響かせています。カルメンを心底恋い焦がれるやるせない思いが伝わってきます。ついでながらこの高音を弱音でゆっくりと歌うのは難しいのです。
終幕、ドン・ホセは顔も髪も衣装もぼろぼろぐしゃぐしゃ状態で現れます。カルメンとドン・ホセが顔を合わせて「あんたなのね C’est toi」「ああ俺だよ C’est moi」と言葉を交わした少し後、完全にいっちゃっている目をしてカウフマンは気味悪くにやり、とわらうのです。
自分を見失い狂気に支配されているドン・ホセ/カウフマン。「カルメンは俺のものにならなけりゃならないんだ」という想いが見え見えの歌唱と演技で迫力満点。
最後、カルメンを刺し殺した後彼女を抱きかかえたまま彼は一瞬笑うのです。ただし「にやり」ではなくて、何というか解放されたというか、これで永遠に俺のものになった、という安堵の笑いでしょうか。
そして、
「俺がこいつを殺したんだ!」
「ああ、カルメン!おれの愛しいカルメン!」
と言って呆然と死んだカルメンの傍らにくずおれるのです。
ROHでのカウフマン/ ドン・ホセはその歌と演技のすごさでカルメンを喰ってしまいオペラ「カルメン」ではなくてオペラ「ドン・ホセ」と思えます。もちろんROHでのカルメン役、アンナ・カテリナ・アントナッチは歌も演技もとても上手だったことは付け加えておきたいです。
カウフマンはROH型のドン・ホセではなく従来型のドン・ホセ像を演じていることも多いですが、いずれも素晴らしい歌唱と演技です。ROHカルメンの全曲版はビデオとしてアマゾンなどから入手可能です。(2016.11. wrote)