”Baritenor CD” by Michael Spyres 2021.11


この記事は鑑賞記本文の前にあまり馴染みのない"Baritenor"という言葉の説明を加えています。

 

"Baritenor" CDはマイケル・スパイアーズが出した新しいアルバムです。しかし、Baritenorってなんでしょう?

 

私はこのCDで初めて"Baritenor"という声のジャンルがあるのを知りました。しかしこの言葉はスパイアーズの造語ではありません。wikiで調べると"Baritenor"は昔から存在していました。wiki"Baritenor"  last edited on 22 October 2021, at 01:55 UTC) によれば、

 

Baritenorは現在でもロッシーニのオペラで特に有名になったテノールの声の種類を表すのに使われていて、その特徴は下のオクターブが暗くて重く、上のオクターブが鳴り響くとともにコロラトゥーラを歌うのに十分な敏捷性があること。

 

ロッシーニはBaritenorを、高貴な(そしてたいていは年配の)主役を演じるのに使っていて、若くて衝動的な恋人たちを演じるテノーレ・ディ・グラツィアやテノーレ・コントラルティーノの高くて軽い声と対比させることが多い。 例えば、オテロ役はバリテノール、ロドリーゴ役はテノーレ・ディ・グラツィアに書かれている。

 

要するに重みを持った中低音をしっかり出すことができ、しかも高音が輝かしくコロラトゥーラも歌える柔軟性を持った声をBaritenorと呼んでいるらしい。

 

現在でもバリトンからテノールへ、またはテノールからバリトンに、と声種の変更をする歌手は何人もいらっしゃいますが、Baritenorはバリトンであると同時にテノールでもあるのです。

 

「この様な声を持っている歌手は訓練すれば「ペレアスとメリザンド」のペレアスやジークムント、フィデリオを歌えるテノールに進化することもできる」という人もいます(wiki)

 

追記:ちなみに、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」初演の際アルマヴィーヴァ伯爵を歌ったのはマヌエル・ガルシアでした。かれはバリテノールでロッシーニのオテロ(テノール役)、モーツアルトのドン・ジョヴァンニやアルマヴィーヴァ伯爵(バリトン役)などテノールとバリトンの役を輝かしく歌っていたそうです("Manuel García (tenor)": Wikipedia This page was last edited on 19 December 2021, at 02:45 (UTC)(2021.12.29)

 

一方上の動画にあるスパイアーズ自身の説明によると、、、

 

「昔はバリトンが現在のバリトンとテノールの両方を歌っていましたが(これが彼のいうBaritenorのことかな?) オーケストレーションの大型化に対応して次第に高音と低音を歌うテノールとバリトンに分離した」のだそうです。そして「バリテノールというカテゴリーが存在し、実際バリトン・テノール両方を歌える歌手がいることを知ってほしい」という願いを込めてこのCDを出したということです。

 

私は以前「番外地」でスパイアーズを紹介しています。そこにも書きましたが、彼は世界でトップクラスの有名なベルカントテノールで、ハイCなど楽々出るし、さらに高いE(さらにそれ以上)の音を輝かしく歌うことができるのです!しかも声が強く張りがあって輝かしい。

 

さらにびっくりすることに彼はベルカントオペラを歌う一方でリリカルなテノールが歌う「ドン・ジョバンニ」のドン・オッターヴィオやグノーのロメオ、更にヘルデンテノールが歌うフィデリオやトリスタンも並行して歌っているのです。

 

最近オペラコミッシェでフィデリオを歌っていた彼の"Go〜〜tt!"をYoutubeで聴きましたがフィデリオとして十分な声、非常に上手い印象的な歌唱でした。

 

ちなみに、スパイアーズは初めバリトンとしてスタートしましたが、先生の勧めによってテノールに変えたということです。ベルカントオペラの世界は先見の明のあったその先生に感謝ですね。

 

さて、次が本題

 

鑑賞記:Baritenor CD

 

★ フランスオペラを得意とするスパイアーズなのでレアなフランスオペラのアリアがいくつも入っています。プレミエの録音も4つ入っているそうです。また現在はバリトンが歌う「ハムレット」もオリジナル版ではテノールが歌うことになっていたそうで、そのオリジナル版を歌います。

 

★ アルバムは一応作曲者別。テノールとバリトンの歌うアリアが並べられています。

 

★ ウルトラしっかりとしたベルカント技術に支えられた力強く張りのある美声を堪能することができます。テノールのアリアにしてもバリトンのアリアにしても、低音がしっかりときちんと聞こえるのが気持ち良い。

 

★ テノールのアリアは高音が輝かしくまさにテノール!と感じられるのに、バリトンのアリアになるとふわっとしたバリトンの響きが付くのが面白いです。

 

以前私はおたく記事「オペラの醍醐味:バリトンの魅力」の中で

 

「典型的なバリトンの音域は概ねG2~G4、(低いソ音から高いソ音まで)。バリトンとテノールの音域は高音で3度くらいしか違わないのですが、声が輝く領域が異なるように思います。テノールの声は高音に行くほど輝かしいですが、バリトンの声は中低音領域で印象的に響くのです。」

 

と書きましたが、彼の声はテノール、バリトン両方の特性を持っている様に感じられます。バリトンに必要とされる響きは付いていると感じました。もっとも低音の充実したバリトンが持つ幅の広い深々とした響きはない様に思えます。バリトンと言ってもパパゲーノとかフィガロの様な役が似合うかなあ。ハイバリトン風でしょうか。

 

★ 情緒的なアリアの歌い方がベルカント的というか正統的というか、きちんと歌っていてエモーショナルに歌い崩したところがない、というのがちょっとだけ物足りなかったと感じられました。(でも歌い崩すのはやりすぎると下品、またはしらけますのでその程度が難しいです)。ただし、このCDはスタジオでの録音ですから、オペラの舞台で歌うのとは違って当然かもしれません。

 

★ 個々のアリアで気がついたところを簡単に書いてみますと、

 

最初の「イドメネオ」"Fuor del mar"。テノールの歌。難しいアリアですが、張りのある声で難なく歌っています。

 

で、次の「フィガロの結婚」アルマヴィーヴァ伯爵のアリア "Hai già vinta la causa" となると中年の伯爵の雰囲気になるのが面白い。ドン・ジョバンニのアリア "Deh vieni alla finestra" もこれだけを聞かされたらテノール、しかも超高音バリバリのベルカントテノールが歌っているとは思えない。

 

「セヴィリアの理髪師」フィガロの"Largo al factotum" は綺麗で滑らか。コンサート独唱用の歌い方に聞こえる。自由に遊んで歌っているが舞台だと更に楽しい歌い方になると思う。低い音がよく出ている。

 

ロッシーニの「オテロ」"Ah! sì, per voi già sento"。見事なアジリタ、超高音は力強く、そして相当低い音域(普通のテノールではきちんと出すのが難しい音域)のフレーズもしっかりとこなす。なるほど、これがロッシーニの "Baritenor" ですか。ところで、CD添付の説明書には「ロッシーニのオテロ」と書いてあるのだが、CDの中の曲の説明には「Verdiのオテロ」と書いてある・・・

 

「連隊の娘」有名なメザミソング。張り切ったフォルテハイCで楽々と歌いきる。典型的なベルカントテノールの声でしょう!

 

で、次はヴェルディ「イル・トロバトーレ」ルーナ伯爵の有名なアリア "Il balen"。上に書いた「ドン・ジョバンニ」等と同様突然バリトン的な声になる。しかしバリトン声が自然。作った声には聞こえない。レガートが美しく豊かに聞こえる。高音部は朗々として美しい。ただし上にも書いたが、ヴェルディバリトンなどが出す幅の広い深々とした響きはない様に思えます。

 

彼のお得意フランスオペラ「ホフマン物語」クラインザックの歌。歌い方がこなれています。これを聴くと高音が輝いて完璧にテノールの声。

 

次はワーグナー「ローエングリン」の "In fernem land" をオリジナル フルオーケストラ フランス語バージョンで歌っています。これは珍しい。非常に滑らかな歌いぶりです。ワーグナーはこのオペラをロマンティックオペラとして作ったそうですがフランス語版もなかなかロマンチックな情緒があります。

 

そういえばカウフマンが昔のフランス語で歌われた「ローエングリン」を聞き、その柔らかな響きを褒めていました。

 

ヴェリズモオペラ「道化師」。冒頭のバリトンのアリア "Si può?"。 何度も言いますがバリトンのアリアになると中音域の響きがはっきりと出てきます。

 

あれまあドイツオペラも歌っています。コルンゴルトの「死の都」。第1幕のパウルとマリエッタの掛け合いの二重唱を一人で全部歌っている。難易度の高いパッセージもラックラク。歌の輪郭がくっきりとしている印象がある。私的にはこのアリアはもっとロマンチックな雰囲気に浸ってホワッとエモーショナルに歌われる方が好きなのですけどね。

 

さてこれらを聴いた後での考えをまとめてみると、

 

確かに彼はバリトンとしても通用しそうです。一方、テノールとしての彼の声はベルカントオペラやフランスオペラその他の英雄的な役にぴったりです。

 

番外地の「テノールの新星」にも書きましたが、テノールは昔から慢性的な人材不足です。ソプラノの相手役などテノールの需要はそれなりにありますが、元々テノールの声を持つ男性は少ないので(世の男性の多くはバリトン)美しい声を持ち歌唱技術に優れたテノールはいつも不足する状況になってしまうのです。

 

そのテノールの中でも軽く細めの声ではなく強く輝かしい高音と充実した中低音を持つテノールはもっと少なく、彼はオペラ界で貴重な存在です。

 

対するバリトンは声よし、技術よし、容姿よし、と全てのファクターが揃っていないと一流として生き残るのが難しいくらい豊富な人材がいて、世の中には現在の彼と同様または彼以上に素晴らしいバリトンがたくさんいます。

 

、、、というわけで「バリトン役を歌うのはとやかく言わんけれど、ベルカントやフランスオペラその諸々のテノール役はずっと歌い続けて欲しいなあ」 というのがこのCDを聞いた私の思いです。

 

(2020.11.19 wrote) 鑑賞記に戻る